痛みと生きる
痛みが年中染み出してくる。
薬を飲んで痛みが染み出すたびにまた薬を飲む。
終わりはない。
精神は常に見えない形で痛みと争い合う。
痛みがある。
自律神経を巻き込んで体を調整する。
薬で痛みはなくても痛み物質は脳を走り回る。
身体は正直だ。
だんだんと身も心も痛みに同調し自分自身と呼ばれる自我、意識、認知が遠のいていく。
次第に自分が遠のいていく。
行き着く先は何だろう。
生きながら自我のない人間が生まれるのだろうか。
それともそれは脳死同様、死であると考えるべきだろうか。
死が曖昧になるのではなく生が曖昧になっていく。
果たしてこれは生きていると言えるのだろうか、と。
疼痛で自死を選ぶ理由は痛みと同居するという元々人はそんな風に人は作られてはいない、だから死を選択して終わらせるしか方法がないからだ。
そう、疼痛は選択の余地が極めて限定的だ。
薬を受け入れ痛みを我慢し続け自分が消し去る、そう、意思の消失、論理的な死を待つか。
速やかなる物理的な死を自らの手で実行するのか。
私は論理的な死もやはり一般的な死と同列だと考える。
しかし、その死は社会から尊厳的な選択、安楽死は与えられない。
この国にはまだ痛みで死を選択する願いはほぼ認知されていない。
我慢せよ、だ。
そういえば私が生まれた頃のガンの痛みは認知されず、大変な苦痛の末に死を受け入れる、いや、苦痛を押し付けられて死を迎える時代だった。
現代医学では極めてナンセンスだが、それは間違いなく存在していた。
死は医者が決めるものだった。
今の医者も大半がそうだ。
痛みだけで死にはしない。