エネルギーが底をつく
線維筋痛症という診断が下ってしまった。
この結果だけは受け取らないよう心のどこかで安全装置が働き、底知れぬ恐怖を感じ、避けて暮らしてきたのに、だ。
やっぱり治らない。
痛みに自我が奪われてしまう。
死ぬより自我が失われてしまうのが怖い。
自分が自分だと分からなくなっていく恐怖が襲ってきた。
あと何年もしないうちに自分が無くなってしまう残酷さに恐怖した。
死ぬことより自分が緩やかに消え去るそこ知れぬ恐怖が全身を覆い絶望した。
あとどれくらい自分は世界を認識し続けることができるのだろうか。
痛みは確実に自分の意識、自我を手放すよう襲いかかってくる。
自分がいるのに自分がいない世界。
死ぬより怖い世界がやってくる。
子供の頃に読んだFlowers for Algernon。
まさか自分が生きながら認知を失うなんて予想できていなかった。
この病気の怖さは痛みだけじゃなく自分がいなくなる自分を日々薄れゆく意識の中で感じながら生きることだ。
人が持つ認知がここぞとばかり生きやすさを邪魔し始める。
お前は誰なんだ?
誰だか分かっているのか?
自問自答が続いていく。
次第に即答できなくなる自分を自分で感じながら生きている。
この状態は人としての生と言えるのだろかという考えが浮かび上がる。
お前は生きるているのか?
生きながら死んでいるんじゃないか?と。
今という瞬間でいえば相変わらず生きている。
仕事はケリをつけた。
既に体の痛みが染み出し始めているし、その影響ですぐにストレスは限界に達し溢れ出すストレスに精神は押しつぶされる。
一年前と同じ状況だ。
自分の実力では今の業務は維持できない。
だから、業務をシュリンクさせた。
自分で作った未来だから自分で決めて自分で未来を閉じた。
障害者として生きるしかなさそうだ。
その方向で人生をひとまず考え直そうと思った。
偶然、地方でのんびりできる仕事を数日やってきた。
その時自分が抱えている仕事の異常性に気がついた。
ぼろぼろなのにまだ挑み続けている自分の異常性に気がついた。
病気のせいだろうか。
我慢、耐性については異常とも思えるほど強くなっていたようだ。
ふと田舎の海から流れてくる潮風を全身に浴びながらどうして自分は自分を追い詰めてしまうのだろうか、もっともっと優しい世界に身を投じないのだろうか。
そんな考えというか思いがこみ上げてきた。
もう、降りよう。
降りなきゃダメだ。
異常なのは体ではなく、自分自身だった。
いつの日からか自分自身が自分自身に飲み込まれないようにするためにもがいた結果。
自分自身が怪物になっていた。
港町に生まれたおかげだろか。
潮風が幼い頃港町で遊びまわった自分の意識と今の自我を重ね合わせてくれた結果、自分がすっかり失った何か大切なものを気が付かせてくれた。
次は必ず海のそばに暮らそう。
また海辺に戻ろう。
初めて住んだ東京は勝どき、海に囲まれた場所だった。
狭い狭い部屋だった。
そんな狭さから抜け出したくて。
もっともっと広くて快適な暮らしを求め、懸命に生きた結果。
海から遥か遠い場所にたどり着いてしまった。
あと何年生きて歩けるか分からない。
だからこそ、次は海のそばに住もう。
夏にはむせかえるような潮の香りに少しうんざりしながら暮らした街を思い出しながら。
あともう少しだけ生きてその場所にたどり着きたい。