脳で痛みを止め続けるとどうなるか。
一般的に販売されている鎮痛剤は痛んでいる箇所そのものに効く。
私が飲んでいる薬は脳で痛みをブロックするタイプ。
リリカであったりトラムセット 、トラマールと呼ばれているもの。
抗うつ剤が鎮痛目的で利用されることもある。
私はトリプタノールを併用している。
痛みにはあまり効かないけど疼痛の副作用である鬱症状には効いている。
これら薬、同じようで違う。
例えば手を切って血が流れるとする。
この場合、脳で痛みを止めるタイプは効かない。
だから、歯を抜く時の麻酔の代わりにはならない。
なので痛覚は残るから日常生活に直ちに大きな影響はない。
ただし。
短期的には、だ。
この手の神経的な疼痛剤を長期利用した場合の問題は全く取り上げられない。
なぜだろう。
ものすごい問題があるのにもかかわらず、だ。
ただ、その副作用は薬を飲んでいれば今のところ誤魔化すことができる。
では何が問題か、だ。
薬を止めると以下の症状が一日程度で出てきた。
極度の疲労感。
極度の冷え性。
意識が朦朧とする。
つまり、薬を使い痛みを止めてもその反作用が出てくる可能性があるということだ。
冷え性は経験したことがないレベル。
体の中全ての筋肉が冷え、寒くて仕方がなかった。
24度ある室内で寒くて暖房を入れないと我慢できないほど、だ。
原因は極度の血行不良だろう。
意識が朦朧とするのは血行不良と痛みで脳の処理機能が低下、いわゆる意識レベルが低下、認知機能が著しく低下する。
喉が渇いて水を飲もうとして水道の蛇口をひねったが反対の手にコップがない。
本人はコップを持っていたつもりなのにコップがない。
コップが消えたわけではなく、意識レベルが下がって記憶が定かではなくっていてコップを持ったつもりになっていた、ということだ。
流石にこれは精神的に参った。
薬を1日やめただけでまともに生活ができないのだと気がつかされたからだ。
痛み止めを飲むとやはり身体は加速的に反作用が出やすくなる。
私からの警告はここまで。
痛みを受け入れて暮らすか。
痛みを薬で誤魔化す代わりに体にダメージがある事を許容するか。
リリカ、トラムセット 、トラマールも万能薬ではないと言うことだ。
脳で痛みを止めても体の組織はそれぞれ動き、お互いに作用を及ぼしあっている。
近年の研究結果とも一致している。
痛み止めは素晴らしいが自分の身体はそれとは別に機能しあい何らかの作用が生じていることはこの病では大事な認識ポイントだと思う。
定期的に鎮痛剤を止めて体の症状を観察しなければ側からでは見えないほど肉体の中で変化が起こっている事をきちんと認識して観察、必要に応じて鎮痛剤投与一辺倒のアプローチを見直すべきだと思う。
そうしなければ恐ろしい結果を生み出すような気がする。
それほどまでに投薬中断の体調異常は大きかった。
わたしはこの状態で永く生きようとは思えない。
意識があってない状態になるのであれば速やかに人生を終らせたい。
それほどまでにひどい状態だった。
しかし、そんなことは受け入れがたい、と言う人は痛みを受け入れて生きれば良い。
肉体を大事にしつつ痛みを受け入れて生きていくことはそれ自体決して悪いことではないと思う。
鎮痛剤はやはり万能薬ではない。
結果的に身体を傷めることになりうる。
医学関係者はきちんとこれら問題を認識した上で対処することを望む。
ただ、私は量を見直しはするが完全に止める事はしないだろ。
線維筋痛症と向き合うことに必要なポイント、QOLの適切な管理であり完治はできないと認識しているからだ。
痛みに苦しみ年中極度のうつ状態で生きるのか、または、肉体が緩やかに死にゆくことを受け入れつつ痛みがなく適切な意識、認知レベルを保てている生活、どちらを選択するか、これは患者各人が考えて選択すべきことだ。
私は諸々のリスクを自分で考えて後者を選択しただけだ。
生きていながら認知できない状態は肉体の痛み以上に耐えがたい苦痛だからだ。
肉体の生死にしか頓着がない頭でっかちで大量生産型、哲学を持たなたい不幸な医者に出会っていると患者自らが認識しているのであればそんな医者に魂を委ねることなく自分でどう生きたいのかをきちんと考えて患者自らできちんと意思決定すべきだ。
IQ高ければ医者になれるがその知能レベルの高い医者も必ずしも患者の生活レベルの向上にまで興味があるとは限らないと患者は知るべきだ。
疼痛患者は医者に過度に依存し過ぎてはダメだ。
知能指数の高さと他人に対する優しさや思いやりは必ずしも比例しないと言うことだ。
特に医者は生き死に関わらない痛みを患者に許容させるように訓練されている。
医学書にもそう書いている。
もちろんそれには理由があるし、私もそれは妥当だと思う。
基本痛みは人として大事な機能、サインだから。
ただし、慢性疼痛や線維筋痛症患者を除け、だ。
止むことがない慢性的な痛みは人に極度の不安を容易に呼び込み、時にはその不安感、絶望感は患者に対していとも容易く死へ誘うからだ。
我々は痛みに悩まされているだけで思考力は変化していない。
どう生きるのかという選択権は常に私たちにあるし選択できるはずだ。
ただし、薬が効いている間は、だ。
疼痛の理解を深めれば例え治らなくと自分の生き方は選択できるしその選択権は我々にある。
まだまだ疼痛に対する無知、不勉強、後進的な日本の医者に生き方の選択を委ねるのではなく自らが生き方を選択、時には自らが学び主治医から許容される範囲内で薬の量や種類を積極的に選択すべきだ。
医者は決して私たちの側にはいない。
痛みを理解しないし出来ない。
痛みは感覚的すぎてその感覚を共有ができない、定量化が困難だからだ。
我々がこれを認識し医者に助けを求めすぎない。
薬は我々が積極的に選択して効果を確かめながら生きて行く。
今のところ線維筋痛症患者にできることの一つだ。
他人、特に医者に依存しない。
私たちが自立する。
私たちが生き方を選択する。
これが疼痛病に大切な気概だ。
私たちがどう生きるかは自由なのだから。