2019/05/23
日記風に。
当たり前のことが当たり前にできなくなっていることに気がつく。
普通に働く事は間もなくできなくなると思う。
そうなると今まで築いたキャリアは全て無に帰す可能性が高い。
人生やり直しだ。
言葉にするのは簡単だが行動に移ることは全く気乗りがしない。
無茶苦茶な難題ばかり落ちてくる。
これで前向きになれ、と言われても。
なんだかな、とだけ考えるようにしている。
それ以上考えると確実に精神が崩壊しそうな気がする。
今は何も考えず淡々と求人サイトを眺めている。
未来を描くのではなく。
コンパクトな人生、コンパクトな展望をまずは構築しないと。
自分が他人と同じようには生きていけないことを日々自分に諭していく。
違いを受け入れて自分なりの違う道を探していく。
これもまた人生なんだな、と。
2019/05/22
日記風に。
季節柄なんだと思うが、全く心身が安定しない。
ここ数年、5月、6月あたりの落ち込みがひどい。
体も悲鳴を上げているからだろう。
朝、目が覚めても体が動かない。
無理に動かしても痛みで精神が削られていくのが分かる。
定期的にうつ病の自己診断テストをしているし、通院先でも受けている。
結果は相当悪い。
特に自殺に関する項目になると、手が止まる。
正直に書くと強制入院させられる気がするから。
結果を見ながら自分を客観視してみる。
酷い数値だ。
これ以上悪くなりようがないほどに。
どうにかしたい。
どうにかしなくちゃ。
という気持ちが既に湧いてこない。
希望が持てないからだろう。
新しく出会った先生は良い先生だ。
薬だけでどうこうしようとはしない。
しかし、その先生ですらしばらく考え、会話が止まる。
私でも分かる。
この病に効く特効薬なんてありはしない。
先生はせめて医者として一緒に頑張ろうと言うのが精一杯だと思う。
良い先生だ。
この気持ちだけで十分満たされる。
明日が見えない日々が続く。
今を生きるだけで精一杯だ。
ただ、好きなことをすれば落ち着くから時間潰しにTOEICの勉強を始めてみた。
未だにそこそこ分かるのは悪い気がしない。
しばらく続けてみよう。
何か違うものが自分の中から見つかるかもしれないから。
2019/05/19
日記風に。
トリプタノールが切れていたので勝手に飲んでいなかったが、これが次のような作用があることがわかった。
トリプタノール単体では効かないが併せて飲むとトラマールの効き目を増幅する。
触媒みたいな薬のようだ。
私には。
トリプタノールを再開してから少しは痛みが減って一息ついた。
ただし、トリプタノール飲んでから感情がなくなった。
医者の言い方だと感情の起伏がないそうだ。
何か釈然とはしないが、気にしない。
ただ、何かを修復しているわけではないことだけははっきりしている。
そして認知力は日に日に低下している。
私は生きているのかな。
私が私でいられるのはいつ頃までなのかな。
ここに書き込むたびに考える。
私は変質していないか。
わたしは私の想定するわたしであるのか。
わたしはまだいるのかな。
2019/05/15
日記風に。
恐れていたことが起こり始めたような気がする。
薬があまり効かない。
痛みがあちこち出てきている。
寝不足で体力が落ちているからだろうか。
何やら内臓も嫌な感じがしてきている。
内臓界隈にも筋肉はあるだろうし。
味覚もかなり落ちている。
舌の端でしか味がしなくなってきている。
そういえば舌も筋肉だった。
まだ認知力にはあまり影響はなさそうだ。
これが落ち始めると急激に思考力も低下し始める。
あとどれくらい人でいられるのだろうか。
身体を動かす、操縦する
痛みを抱え。
痛みと生きることを肯定する。
いまいまの時点での変化として何が起きているか。
精神面で言えば、自らのエネルギーが空っぽでどうすればよいか、この状態で自らがポジティブに生きるエンジンが無いばかりかそのエネルギーはどこにあるのか。
無い物づくしを探す事に疲れ始めている。
身体はどうか。
相変わらずの酷い疲労感と押せば痛い体のまま。
薬を主治医の指示でトラマールからリリカに変えたが。
体の痛みは取れても疲労感がかなり残る。
重い、重い体。
リリカの特性か頭は何か変化させ頭と身体が離れてしまう気がする。
離人感、それが近い表現だろう。
身体を動かす、そう、無意識から意識的に体を動かしている。
もはや動かすというより体には誰も使わない動詞である、体を、操縦している。
生きるとはここまでの心身の変化を受け入れることななのだろうか。
私には生きている感覚がどうしても。
どうしてもその、生き生きとした、思い出すのが困難になりそうな、その感覚が、どうしょうもなく、今は得られない。
治療と時に残酷な行動ではあるのではないか。
生きることの意味を大きく変えさせてまで生きることを強要しているのではないか。
万人が考える治療。
その言葉にある完全なる善、その甘美なる善を認め、その美しさに共感する未成熟、シンプルではあるが自己完結した魂を持つ人々を動かし得る美しい世界、とは違う場所に私はいる気がする。
この困惑は私をどこに導くのだろうか。
後悔と未来の狭間で。
本業はエンジニア。
いわゆる大規模開発やらインフラのチームの面倒も見ていた。
見ていた、だ。
一部チームを解散させた。
このチームは自律的に動ける人間が少ないためどうしても手間がかかっていた。
売り上げは悪くはない。
だが、解散させた。
自分で取った仕事だから自分の意思を通して解散させた。
理由はこの病気を抱えながら、そして悪化していくこの身体では自分がもたないと判断したからだ。
まあ、これで営業成績は厳しくなるが。
今まで意地でやってきた。
しかし、心がもたなくなった。
あのまま続けていれば再起不能になるのは半年かからなかっただろう。
異常なほど集中力だけはあった。
目の前から世界が消えるのは普通、いつでも簡単にそんな状態になれるぐらいの集中力だけはあった。
今考えると痛みが集中力を鍛えてくれていたのかもしれない。
だから深い集中状態にはすぐダイブできた。
それがもう難しくなっていた。
痛くて痛くて意識を保つことすら危うい日が増えてきたからだ。
そんなある日、潮風にあたり昔の朧げな記憶が自分を振り返らせてくれたことは以前にも書いた。
寂しい気持ち、これで良かったのかという後悔にも似た気持ちを抱きながら自問自答を繰り返す日々が続いている。
今の仕事を続けるのはいずれ難しくなる。
だから、もうエンジニアでいることをやめた。
心の中だけだがそう宣言した。
もう、俺はエンジニアを辞めよう、と。
ここまで色々あったが後悔は全くない。
むしろ、こんな身体でよくやってきたな、と自分を自分で褒めたい。
そう、よくやってきた、と思う。
そうしたら何か自分の中で吹っ切れるものがあった。
そうだ、忙しくて登れなかった北アルプスをまた登ろう。
ちょうど登りたかった積雪期だ。
冬山道具もまだあるし、天気に気をつけつつ、まあ、いけるとこまで行ってみよう。
だめなら、山小屋で停滞して引き返せば良いだけだ。
初めての北アルプスは涸沢までだった。
沈みゆく夕日を独りで眺めていた。
太陽が稜線から消えるその瞬間までずっと眺めていた。
登山を始めたばかりの頃に見た涸沢の写真。
こんな美しい景色が日本にあるなんて。
いつかここへ登ろう、同じ景色をみるんだと決めて。
コツコツと色々な山を登り、道具もあれこれ集め気がつけば大変ではあったがなんとかたどり着くことができた涸沢。
それから何年かすると更に先の北穂高に登り、涸沢岳、奥穂岳、前穂岳も何度か縦走したな。
あの景色の美しさに心奪われ、未だ北アルプスを行ったり来たりしている。
動けなくなる前にもう一度あの美しい景色を見に行こう。
脳で痛みを止め続けるとどうなるか。
一般的に販売されている鎮痛剤は痛んでいる箇所そのものに効く。
私が飲んでいる薬は脳で痛みをブロックするタイプ。
リリカであったりトラムセット 、トラマールと呼ばれているもの。
抗うつ剤が鎮痛目的で利用されることもある。
私はトリプタノールを併用している。
痛みにはあまり効かないけど疼痛の副作用である鬱症状には効いている。
これら薬、同じようで違う。
例えば手を切って血が流れるとする。
この場合、脳で痛みを止めるタイプは効かない。
だから、歯を抜く時の麻酔の代わりにはならない。
なので痛覚は残るから日常生活に直ちに大きな影響はない。
ただし。
短期的には、だ。
この手の神経的な疼痛剤を長期利用した場合の問題は全く取り上げられない。
なぜだろう。
ものすごい問題があるのにもかかわらず、だ。
ただ、その副作用は薬を飲んでいれば今のところ誤魔化すことができる。
では何が問題か、だ。
薬を止めると以下の症状が一日程度で出てきた。
極度の疲労感。
極度の冷え性。
意識が朦朧とする。
つまり、薬を使い痛みを止めてもその反作用が出てくる可能性があるということだ。
冷え性は経験したことがないレベル。
体の中全ての筋肉が冷え、寒くて仕方がなかった。
24度ある室内で寒くて暖房を入れないと我慢できないほど、だ。
原因は極度の血行不良だろう。
意識が朦朧とするのは血行不良と痛みで脳の処理機能が低下、いわゆる意識レベルが低下、認知機能が著しく低下する。
喉が渇いて水を飲もうとして水道の蛇口をひねったが反対の手にコップがない。
本人はコップを持っていたつもりなのにコップがない。
コップが消えたわけではなく、意識レベルが下がって記憶が定かではなくっていてコップを持ったつもりになっていた、ということだ。
流石にこれは精神的に参った。
薬を1日やめただけでまともに生活ができないのだと気がつかされたからだ。
痛み止めを飲むとやはり身体は加速的に反作用が出やすくなる。
私からの警告はここまで。
痛みを受け入れて暮らすか。
痛みを薬で誤魔化す代わりに体にダメージがある事を許容するか。
リリカ、トラムセット 、トラマールも万能薬ではないと言うことだ。
脳で痛みを止めても体の組織はそれぞれ動き、お互いに作用を及ぼしあっている。
近年の研究結果とも一致している。
痛み止めは素晴らしいが自分の身体はそれとは別に機能しあい何らかの作用が生じていることはこの病では大事な認識ポイントだと思う。
定期的に鎮痛剤を止めて体の症状を観察しなければ側からでは見えないほど肉体の中で変化が起こっている事をきちんと認識して観察、必要に応じて鎮痛剤投与一辺倒のアプローチを見直すべきだと思う。
そうしなければ恐ろしい結果を生み出すような気がする。
それほどまでに投薬中断の体調異常は大きかった。
わたしはこの状態で永く生きようとは思えない。
意識があってない状態になるのであれば速やかに人生を終らせたい。
それほどまでにひどい状態だった。
しかし、そんなことは受け入れがたい、と言う人は痛みを受け入れて生きれば良い。
肉体を大事にしつつ痛みを受け入れて生きていくことはそれ自体決して悪いことではないと思う。
鎮痛剤はやはり万能薬ではない。
結果的に身体を傷めることになりうる。
医学関係者はきちんとこれら問題を認識した上で対処することを望む。
ただ、私は量を見直しはするが完全に止める事はしないだろ。
線維筋痛症と向き合うことに必要なポイント、QOLの適切な管理であり完治はできないと認識しているからだ。
痛みに苦しみ年中極度のうつ状態で生きるのか、または、肉体が緩やかに死にゆくことを受け入れつつ痛みがなく適切な意識、認知レベルを保てている生活、どちらを選択するか、これは患者各人が考えて選択すべきことだ。
私は諸々のリスクを自分で考えて後者を選択しただけだ。
生きていながら認知できない状態は肉体の痛み以上に耐えがたい苦痛だからだ。
肉体の生死にしか頓着がない頭でっかちで大量生産型、哲学を持たなたい不幸な医者に出会っていると患者自らが認識しているのであればそんな医者に魂を委ねることなく自分でどう生きたいのかをきちんと考えて患者自らできちんと意思決定すべきだ。
IQ高ければ医者になれるがその知能レベルの高い医者も必ずしも患者の生活レベルの向上にまで興味があるとは限らないと患者は知るべきだ。
疼痛患者は医者に過度に依存し過ぎてはダメだ。
知能指数の高さと他人に対する優しさや思いやりは必ずしも比例しないと言うことだ。
特に医者は生き死に関わらない痛みを患者に許容させるように訓練されている。
医学書にもそう書いている。
もちろんそれには理由があるし、私もそれは妥当だと思う。
基本痛みは人として大事な機能、サインだから。
ただし、慢性疼痛や線維筋痛症患者を除け、だ。
止むことがない慢性的な痛みは人に極度の不安を容易に呼び込み、時にはその不安感、絶望感は患者に対していとも容易く死へ誘うからだ。
我々は痛みに悩まされているだけで思考力は変化していない。
どう生きるのかという選択権は常に私たちにあるし選択できるはずだ。
ただし、薬が効いている間は、だ。
疼痛の理解を深めれば例え治らなくと自分の生き方は選択できるしその選択権は我々にある。
まだまだ疼痛に対する無知、不勉強、後進的な日本の医者に生き方の選択を委ねるのではなく自らが生き方を選択、時には自らが学び主治医から許容される範囲内で薬の量や種類を積極的に選択すべきだ。
医者は決して私たちの側にはいない。
痛みを理解しないし出来ない。
痛みは感覚的すぎてその感覚を共有ができない、定量化が困難だからだ。
我々がこれを認識し医者に助けを求めすぎない。
薬は我々が積極的に選択して効果を確かめながら生きて行く。
今のところ線維筋痛症患者にできることの一つだ。
他人、特に医者に依存しない。
私たちが自立する。
私たちが生き方を選択する。
これが疼痛病に大切な気概だ。
私たちがどう生きるかは自由なのだから。