medama999’s blog

このブログは私がネットワークの海に浮かべる認知と記憶の一部です。疼痛、線維筋痛症により大きく変化した思考と共に。

痛みで死に至るロジックを考えてみる。

朝、目が覚める。

ここから戦いが始まる。

身体が硬直してなかなか動かないのだ。

何気ない動作が気の遠くなる作業になる。

またこれか。

これから始まるのか。

目が覚めた瞬間から気力を奮い立たせないと身体すら起こせない。

同時に身体のあちこちから痛みが意識へ流れ込んでくる。

これをポジティブに捉えるというのはかなり厳しい。

特に目覚めた瞬間は認知に必要な情報が不足している。

そんな状態ではあるがゆっくりと認知療法を記憶に流し込んでも身体の硬直、痛みをポジティブに変換する何かを見失ってしまう。

どうすれば身体を動かせるのだろうか。

何をテコに気分を上げれば良いのだろうか。

こんな毎日を迎えると昨日まで使えたテコ、思考法はやがて枯れ果ててしまうのだ。

これが朝の目覚めだ。

毎朝、毎朝の辛い日課だ。

 

正直、死にたくなる。

何故なら解決法や希望すら見つからないからだ。

人は絶望に捉われると死に向かうようにプログラムされているようにしか考えられない。

ロジックではなく湧き出る感情、思考全てがそこに向かう事で快楽さえ感じ始める。

人の思考がデッドロック、思考の袋小路に行き着くとその悩みを肯定したり否定し始める。

とにかく思考を前に進めようとする人の本能がそうさせるのだろう。

デッドロックにはまって全く動けなくなる人間はいないから。

悩んで動けなくなると人は確実に死ぬからだ。

そして常に行き着いてしまう最悪の答えを自己肯定し始める。

人の思考、認知は一般的なコンピュータと違い基本的には正と負が常に揺らいだ状態で答えを出そうとする。

そして人に組み込まれている人の生き死に直結する自己防衛プログラムは自己利益を原則優先するようにデザインされている。

自分という世界に一つの拠り所である意識、思考、認知が何度も何度も生み出す自己利益に反する解答をやがて自己防衛プログラムは自己利益に反しても緩やかにその答え、この場合では死すら受け入れ始める場合がある。

思考、認知は常に揺らいでいるからだ。

とにかく受け入れることで思考が前進し悩むという苦痛からひとまずは解放される。

これは自己防衛プログラムすら超越しうる人の認知メカニズム、揺らいだ認知に依存する残念な点の一つかもしれないが大多数の人類が生き残り増え続けているのだから間違いとは言えない。

繁栄こそ最大の目的とするならこのデザインはうまく機能している。

しかし、この不確定さを持つ揺らぎに決定権を委ねる故に人は自己利益に反した結果を選んでしまうケースがある。

やがて自己防衛プログラムすら超えた動きを許容する揺らぐ認知は自己利益に反する答えを突きつけられ続けると答えが出ない苦痛から逃れようとし大原則である自己利益の優先すら放棄、負の値すら絶対値的な正の値に反転させ問題の解決を更に模索し始める。

負の値が大きければ大きいほど当然大きな正の値に突然変化し始める。

このケースで言えば果てしなく続く辛い状況から何とか抜け出したいがやはり死ぬのは怖いという負の感情を早く死ねばこの状況から楽に抜け出せるのではないかという正の感情にへ変化、転換させて強引に自己解決を試みようとする。

いつも死ななければ解決できない、というどうしようもなく辛い答えにたどり着くからだ。

そんな馬鹿な?なんて言っても仕方がない。

人はそのようにプログラムされているのだから。

できる限り人は意識、思考、認知を止めないようにもプログラムされている。

残念ながら人の認知、それを生み出す脳というデバイス、プログラムは恐ろしく古く、人が現代で得た解決法を誰でもが極限状態で実行できるようにはそもそも作られてはいないからだ。

100年以上前に生み出された一般相対性理論量子力学を誰もが理解できないのと同様に誰もが絶望状態にいても書籍で読むような聖人君子のように振る舞えるようにはそもそも作られてはいないのだ。

だから、絶望を乗り越えられない事は決して悪ではない。

絶望が続けば自らを終わらせるプログラムが人の遺伝子にデザインされているからだ。

これは遺伝子を組み替えなければ取り除けないのだろう。

しかし、死を否定しつつ幾つかの解決方法を提示している宗教、決して全ての宗教ではないが、を学んでいれば無宗教より絶望的な死から救う事が出来ているという統計的な事実はこのプログラムを変更させることができるだろうという希望の一つだ。

 

どうしよう。

どうしようもない。

楽になりたい。

楽になろう。

終わらせたい。

終わらせよう。

たった独りで何ができるのだろうか。

現代医学ですらなす術がないのに。

このループに落ちれば人は死ねる。

高度な認知力を持つ人が何故死を選択するのか。

死、それは決して出口ではなく終着点であるが故に、出口がない事実を抜け出そうと機械的ではなく揺らぐ思考を続けることで結果、負の絶対値変換により負である恐怖が正の快楽に変化が起こるからだ。

結果、死は麻薬と変わらない効力を発揮し始める。

初め死ぬことは怖いものだった。

しかし、何度も何度も考え続けた結果、いつもたどり着く死という解決法は正しくむしろ優しく気持ちが良い解決法のはずだ、と感情の受け取り方が反転する。

ここまで感情の反転が進み始めると死は恐怖そのものであったはずが一転快楽が恐怖を飲み込み始める。

恐怖を表すありとあらゆる数値が緩やかに絶対値に変化し始める。

やがて快楽が恐怖を覆い被せた瞬間。

死は恐怖から離れ快楽にのみ目を奪われ始める。

この瞬間から自分で死ねる装置が発動する。

この装置は恐らく遺伝子に組み込まれているのだろう。

民族を問わず発動する装置だ。

この装置の発動を止めるにはどうすれば良いのか。

生き残るという認知、思考がまだ出来ている間に新たなる答えを出さなければならない。

死が快楽であるという誤った情報を何か別の情報で、人はそれを希望と呼ぶようだが、オーバーライドさせる必要がある。

死が快楽に感じ始めれば自殺装置は発動し始めている。

装置を取り除くことは人である限りできないが少なくとも装置が役割を果たすことを遅らせることはできる。

その方法は多種多様で本人ですら分からないことも多い。

人はどうやって自殺装置を止めれば良いのか。

医学の力を借りる。

国に支援を仰ぐ。

自己破産という方法も時には有効だろう。

しかし、自殺装置が発動し思考ループに陥るとその他方法は浮かばない。

疼痛病、特に線維筋痛症に自殺が多いのは体に苦しみが湧き出て止める術がなく自殺装置の発動が一般より容易になっているからだ。

自殺装置のトリガー、きっかけは決して痛みじゃない。

決して痛みから逃れられない絶望こそがそのトリガーだからた。

どんな医学書やリファレンスを読んでもこんなことすら書いてはいない。

現代医学では人の絶望を定義できないからだ。

そしてその隙間を縫うように悩める人間に死という選択肢が入り込んでしまう。

認知療法や精神医学による投薬を試みても絶望が日々自動に湧いてくる身体にはなかなか効果はないのだ。

疼痛による鬱は所謂鬱とは違い抗鬱剤は効かない。

少なくとも完治させることは無理だ。

先に書いたように原因が別にあるからだ。

 

行き着く最後の方法は人が人である所以である認知力を低下させるしかない。

自殺装置は認知そのものに組み込まれているように思える。

意識が一定レベル以下に下がると死は思考の中にある選択肢から消えるからだ。

故にこの病を生きながら迎える先は生きながら死ぬ方法が一つの選択肢にはなり得る。

認知力を自殺装置が発動しない極限まで下げれば良い。

 

自分を自分であることすら認識できない人間。

これは生きていると言えるのか?

尊厳ある人としての生と言えるのか?

 

人は新しい死を定義する時が間も無くやってくるのだろう。

これがこの病の最終的な着地点になるだろうと日々感じ、考える。

私は人として生きていられるのだろうか、と。

人の生は脳そのものの生き死にが問題ではなく自身を認知できているからこそ生のはずだ。

身体中から脳へ流れ込む膨大な痛み信号はやがて人としての認知機能をゆっくりと低下させ始める。

これもこの病の大きな問題だ。

痛みは人の思考に確実に割り込み、時には世界の事象を極めてスローに感じさせるほど膨大に処理を要求する。

これは多くの人が経験しているはずだ。高熱にうなされる時とほぼ同じ感覚だから。

思考ができるから人は人である。

エネルギーが底をつく

線維筋痛症という診断が下ってしまった。

この結果だけは受け取らないよう心のどこかで安全装置が働き、底知れぬ恐怖を感じ、避けて暮らしてきたのに、だ。

 

やっぱり治らない。

痛みに自我が奪われてしまう。

死ぬより自我が失われてしまうのが怖い。

自分が自分だと分からなくなっていく恐怖が襲ってきた。

あと何年もしないうちに自分が無くなってしまう残酷さに恐怖した。

死ぬことより自分が緩やかに消え去るそこ知れぬ恐怖が全身を覆い絶望した。

あとどれくらい自分は世界を認識し続けることができるのだろうか。

痛みは確実に自分の意識、自我を手放すよう襲いかかってくる。

自分がいるのに自分がいない世界。

死ぬより怖い世界がやってくる。

子供の頃に読んだFlowers for Algernon。

まさか自分が生きながら認知を失うなんて予想できていなかった。

この病気の怖さは痛みだけじゃなく自分がいなくなる自分を日々薄れゆく意識の中で感じながら生きることだ。

人が持つ認知がここぞとばかり生きやすさを邪魔し始める。

お前は誰なんだ?

誰だか分かっているのか?

自問自答が続いていく。

次第に即答できなくなる自分を自分で感じながら生きている。

この状態は人としての生と言えるのだろかという考えが浮かび上がる。

お前は生きるているのか?

生きながら死んでいるんじゃないか?と。

 

今という瞬間でいえば相変わらず生きている。

仕事はケリをつけた。

既に体の痛みが染み出し始めているし、その影響ですぐにストレスは限界に達し溢れ出すストレスに精神は押しつぶされる。

一年前と同じ状況だ。

自分の実力では今の業務は維持できない。

だから、業務をシュリンクさせた。

自分で作った未来だから自分で決めて自分で未来を閉じた。

 

障害者として生きるしかなさそうだ。

その方向で人生をひとまず考え直そうと思った。

偶然、地方でのんびりできる仕事を数日やってきた。

その時自分が抱えている仕事の異常性に気がついた。

ぼろぼろなのにまだ挑み続けている自分の異常性に気がついた。

病気のせいだろうか。

我慢、耐性については異常とも思えるほど強くなっていたようだ。

ふと田舎の海から流れてくる潮風を全身に浴びながらどうして自分は自分を追い詰めてしまうのだろうか、もっともっと優しい世界に身を投じないのだろうか。

そんな考えというか思いがこみ上げてきた。

 

もう、降りよう。

降りなきゃダメだ。

異常なのは体ではなく、自分自身だった。

 

いつの日からか自分自身が自分自身に飲み込まれないようにするためにもがいた結果。

自分自身が怪物になっていた。

 

港町に生まれたおかげだろか。

潮風が幼い頃港町で遊びまわった自分の意識と今の自我を重ね合わせてくれた結果、自分がすっかり失った何か大切なものを気が付かせてくれた。

次は必ず海のそばに暮らそう。

また海辺に戻ろう。

 

初めて住んだ東京は勝どき、海に囲まれた場所だった。

狭い狭い部屋だった。

そんな狭さから抜け出したくて。

もっともっと広くて快適な暮らしを求め、懸命に生きた結果。

海から遥か遠い場所にたどり着いてしまった。

 

あと何年生きて歩けるか分からない。

だからこそ、次は海のそばに住もう。

夏にはむせかえるような潮の香りに少しうんざりしながら暮らした街を思い出しながら。

あともう少しだけ生きてその場所にたどり着きたい。

痛みと生きる

痛みが年中染み出してくる。

薬を飲んで痛みが染み出すたびにまた薬を飲む。

終わりはない。

精神は常に見えない形で痛みと争い合う。

痛みがある。

自律神経を巻き込んで体を調整する。

薬で痛みはなくても痛み物質は脳を走り回る。

身体は正直だ。

だんだんと身も心も痛みに同調し自分自身と呼ばれる自我、意識、認知が遠のいていく。

次第に自分が遠のいていく。

行き着く先は何だろう。

生きながら自我のない人間が生まれるのだろうか。

それともそれは脳死同様、死であると考えるべきだろうか。

死が曖昧になるのではなく生が曖昧になっていく。

果たしてこれは生きていると言えるのだろうか、と。

疼痛で自死を選ぶ理由は痛みと同居するという元々人はそんな風に人は作られてはいない、だから死を選択して終わらせるしか方法がないからだ。

そう、疼痛は選択の余地が極めて限定的だ。

薬を受け入れ痛みを我慢し続け自分が消し去る、そう、意思の消失、論理的な死を待つか。

速やかなる物理的な死を自らの手で実行するのか。

私は論理的な死もやはり一般的な死と同列だと考える。

しかし、その死は社会から尊厳的な選択、安楽死は与えられない。

この国にはまだ痛みで死を選択する願いはほぼ認知されていない。

我慢せよ、だ。

そういえば私が生まれた頃のガンの痛みは認知されず、大変な苦痛の末に死を受け入れる、いや、苦痛を押し付けられて死を迎える時代だった。

現代医学では極めてナンセンスだが、それは間違いなく存在していた。

死は医者が決めるものだった。

今の医者も大半がそうだ。

痛みだけで死にはしない。

一方でかなりの割合で疼痛患者、とりわけ線維筋痛症患者は自死を選択している。

解決はできない

普通に生きていて。

病名がつかない、なんてまずないだろう。

そもそも病名がない。

痛いだけでは病名をつけよう医者はまずいない。

 

我慢しなさい。

気のせいだ。

同じような人は沢山いる。

 

だいたいこんな診察だ。

原因がないのに痛みが発生するわけがない。

いや、現代医学で診断がつかないものがあるはずがない。

だから、痛み出すわけがない。

これが普通の医者のロジックだ。

痛むものは可視化され尽くした。

故にそんなものは存在しない。

残るは患者の嘘、欺瞞、詐称だ。

アメリカは今痛み止めで大量の人が死ぬ時代に突入した。

痛みが取れるだけで人が恍惚感を得られるなんて普通の人には理解できない。

残念ながら普通の人が痛み止めを飲んでも恍惚感なんて得られない。

 

痛みが取れる。

それだけでも人は快楽を感じるようにできている。

 

ただしその快楽を得るには罰ともつかない痛みを抱えながら生きていかなければならない。

 

そんな痛みに快楽が勝ることはない。

 

ほんの一瞬だけ快楽、いや、ほっとできる時間を得る事ができる。

痛みは人を歪め生きることから光を奪う。

記憶がない

今かけていた眼鏡がない。

スマホが見当たらない。

 

どんどん忘れ物が増えていく。

 

何故だろう。

 

認知療法やら受診して分かったこと。

 

自分であることすら手放している。

 

体が痛い。

かんがえたくない。

気を紛らわせるために違うことを考えよう。

 

これを繰り返すと何が起きるか。

自分の意識を手放して生きる。

結果、記憶がない。

行動は終わっている。

でも、その行動が思い出せない。

 

身体は動くが誰かが身体を動かす。

これは自分じゃない。

でも、自分はここにいる。

 

だんだんと現実が離れていく。

理解ない社会で

人が痛みだけで殺されるなんてまあ普通は理解できないだろう。

痛みは治療する、我慢するで大体治るからだ。

 

先生は言いました。

あなたの痛みは治しようがありません。

病名もなんとかすればつくかもしれません。

でも治しようもないし治りません。

 

さて。

この絶望感。

しかし、先生はありがたいことに紛れも無い真実を伝えてくれている。

むしろ感謝すべきだ。

 

治らない。

病名もついたところで意味がない。

この痛みを一生抱えながら生きていく。

 

痛みは心身を殺していく。

集中力を維持するのは本当にしんどい。

気がつけば自我を手放すスキルが身についていく。

自我なんて維持してたら痛みの辛さと向き合わなければならない。

瞬間瞬間で自分を手放しながら生きていく。

自分ではない自分に身を委ねながら生きていく。

多重人格ではない。

ただ、日常で記憶がないことが少しだけ増えていく。

ほんの少しづつ。

結論?

10年近く心療内科に通い。

結果、繊維筋痛まではいかないが慢性疼痛という話だった。

そりゃ抗鬱剤飲んでも治らないよね。

鬱の原因が直せず湧き出るわけだから。

リリカやドラマドールを山のように飲んで何とか痛みは治まったり痛んだりを繰り返す。

何が辛いかといえば痛さと無痛の落差。

これはさらなる地獄を生む。

 

これが一生続くのか。

10年痛みに苦しみあと何十年もこの苦しみと付き合うのか。

 

薬はすでに限界量。

次第に痛みは増してくる。

いつかこの薬では抑えが効かなくなるだろう。

 

なのに楽に死ねない社会。

残されたのは更に痛みがある自殺だけ。

 

自由に死ねれば間違いなく安楽死を選ぶ。

年がら年中痛み苦しむ慢性疼痛。

理解はいらない。

ただ、楽に死なせて欲しい。

誰にも迷惑をかけたくない。

 

今更電車に飛び込んで周りを巻き込みたくもない。

 

ほんの少しの贅沢。

痛みなく死なせて欲しい。

 

正直、ガン患者が羨ましい。

モルヒネ打って意識朦朧になり。

痛みなく死ねる。

モルヒネによる死なのかガンの死なのかはどうでも良い。

 

痛み苦しみ、のたうち回り、毎日が惨めで悲しむ。

 

決して今の医学では直せない。

 

であれば、その医学の力で楽に開放して欲しい。

医学は生かすためではなく楽に死なせることもできるのだから。

 

死を選びたいわけじゃない。

死ぬほど辛い毎日をただ終わらせたいだけだ。

その方法は安楽死にしか道がない。

 

そうでなければ自分で痛みを更に伴いながら惨めに死ぬしかない。

 

最後ぐらい楽にして欲しい。

 

現代医学はどこまでも不自由で。

日本の人権もどこまでも不自由だ。